とーしばブログ

こんにちは、とーしばブログのとしです。オーストラリア、ニュージーランド、カナダの3カ国でのワーホリの体験談、フィリピン、マレーシアでの留学経験。読書や勉強で得た知識や考えやニュージーランドでの投資についてブログで発信しています。

カナダワーホリから2年が経過した今の心境/ 帰国して英語を忘れるのは本当なのか?

こんにちは、とーしばブログのとしです。

早いものでカナダワーホリから2年が経過しました。僕がカナダワーホリを終了したのが、2019年11年18日でした。

 

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現在は実家に暮しているのですが、カナダワーホリがかなり昔に思えます。

だいたいワーホリブログを書く人って、ワーホリが終わったら更新をストップする人が多いのですが、多くの人は日本に帰国して、もとの日常生活に戻るからだと思います。

 

もとの日常って、本当に今までの生活に戻るってことなんですよね。

日本に帰ってワーホリ特有の万能感が消えて無くなるんですよ。だからワーホリのその後って、あんまり情報がないんですよね。

 

僕自身も日本に帰国して、今までと変わらない日常を送っています。

 

ワーホリから帰国すると英語を忘れるのは本当か?

よく日本に帰国すると英語を忘れると言われます。これは半分本当で半分嘘だと思います。

理由としては、一昔前ならまだしも英語環境を作ることはそこまで難しく無いからなんですよね。

 

僕だったら、よく海外の友達と英語でチャットをしたり、時々ですが電話で話をしています。

 

そして、市内にある英語カフェで海外の人たちと英語を話したり、Netflix で英語字幕、英語の音声でドラマや映画を観ています。

ニュージーランドの銀行口座のASBやIRの手続きも年に何回かあったので英語でカスタマーセンターに問い合わせをしたりもしました。

英語を忘れたく無い、英語力を維持したいというのであれば、自分次第でどうにもなるんですよね。

なのである程度の英語環境さえ作れば、そこまで心配する必要ないかなと思います。

一番いいのは、海外の英語で話せる親友を見つけることですね。

英語で自分の思ったことや楽しかったこと、疑問に思ったことや身の回りの出来事などを話せると割と英語力が維持できます。

 

これはハロートークやタンデムがあれば日本に住んでいても、気軽に友達を見つけれるんでそこまでハードルは高くないと思います。

 

仕事面ではかなり限られる

しかし、仕事面で英語を使う職業ってかなり限られているなって思いました。地方だと本当に英語でできる仕事ってほぼ無いんですよ。

 

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それが京都だったり、東京、大阪、横浜、ニセコだったり英語を使う仕事がある場所は問題無いのですが、英語を使える職業がある地域ってかなり地域格差があります。

英語を使う仕事って事務作業かホテルの観光技ですね。あとは英語教室などでしょう。

 

一番英語の仕事がある観光業(ホテル)だと、英語が出来るからといって、そこまで年始アップは見込めそうもありませんね。

日本自体が資格、技能があっても年収がアップするか微妙なので英語に限らず、そんなものなのかも知れません。

英語が出来れば収入アップは半分幻想なのかなと思いました。

 

英語を忘れた場合

仮に英語で喋ろうとしても言葉が出てこなかったり、ボキャブラリーが減っていて、これって英語でなんで言うのか?と考えてしまうことってあると思うのですが、一時的に英単語が出てこない状態だと思うんですよ。

 

英単語がスムーズに出てこない状態って、小学校、中学校時代のクラスメイトの名前が出てこない状態に似ていると思うんですね。

 

でも、それってクラスメイトの名前がすぐに思い出せないだけで、全く知らない状態ではないですよね?

 

英語力にしても脳の記憶が一時的に休眠しているだけで、思い出せばスラスラ言葉も出てくると思います。

 

もし、英単語を忘れても単語を復習して思い出していけば、英語力がある程度、回復するとおもいます。

しかし、あくまで自分が勉強して身につけた英語力が戻って来るのであって、それ以上の英語力を身につけたいのであれば、さらに英語の勉強が必要です。

 

日本に帰国すると生活環境が日本語に戻る

これはワーホリ勢、共通だと思うのですが、日本に帰国すると、圧倒的に英語環境が減るんですよ。

日本なので、生活するにも英語じゃなくて日本語で全て完結するんですね。

家族や親戚、友達と話すにも日本語ですし、街に出ても英語ではなく日本語です。

ほとんどのワーホリ勢が直面するのが、[日本語で生活できる環境に戻る]ってことなんですよ。

 

何もしなければ、あなたの脳は「英語が必要無い」と判断して、自然に英語が記憶の奥に収納されるんですよ。

 

その状態がいわば、[英語が思い出せない、英単語がスムーズに出てこない状態]です。

 

 

英語を忘れないためには、やはりある程度自分で英語環境が作れるかどうかですね。でも意識すれば英語環境は自分で作れます。

 

仮に英語がすぐに出てこない状態になっても、英語を思い出せば英語を使えるようになります。

 

 

 

 

1年間ASBの投資をやってみた結果/ ASB投資2021年10月、11月の運用状況/仮想通貨について

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こんにちは、とーしばブログのとしです。

今回は、2021年10月、11月の運用状況についてです。

 

前回は300ドル台から288ドルに戻りました。8、9月は利子がそこまで伸びませんでしたね。

 

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10月も相変わらず279ドルからスタートでした。それから263ドルまで下がりましたね。

そこから11月には374ドルに増えました。

このように増えたとしても後から目減りすることも起こりますが、気長に見守ってます。

 

1年間ASBの投資をやってみた結果

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僕は約1年間ASBバンクで投資をしてみました。ニュージーランド投資ファンドで投資するのはなかなか面白い経験でした。

今年の初め頃に税務署に海外投資について聞いたのもかなり勉強になりましたね。

 

1年間で増えた額は、6000NZドルをBalance Fundで運用して370NZドルほどでした。

コロナの影響もあって利子がそこまで伸びてなかったのかも知れませんが、こんなもんだろうと思います。

コロナを脱してオーストラリアとニュージーランドの経済が回復してきたら、もっと伸びるかも知れませんね。

 

【ASBは帰国後も使えて、投資運用にも使える)

ASBは帰国してからもしっかり使えますし、定期的に投資運用状況についての報告をメールで送ってきます。

ニュージーランド、オーストラリア経済についてはあまり分からないし、英文が長すぎて読んでないのですが、ASBについてはアプリの使い勝手も丁寧に報告書も送ってくるので良くかなり好感が持てます。

ニュージーランドワーホリに行くならASBはオススメですね。

引き続きブログでニュージーランド投資運用について報告していきます。

 

Dogeコインも大した変化なし

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僕が購入したDogeコインも大きな変化はありませんでした。しかしDogeコインの兄弟コイン、しば犬コインは爆上がりしてニュースになってましたね。

 

10月はしば犬コインが大きく話題にありました。僕も購入しようと考えたのですが、買っても10ドルくらいでって考えていました。そんなに期待値は高くなかったんですよね。

 

仮想通貨で全体の傾向として、一年くらいで一桁くらい価値が上がっているので見ていて面白ですね。

僕のスタンスとしては「とりあえず買って待つ」です。けっこう上がり下がりを観察したり経済について勉強するのって楽しいです。

 

Dogeコインを追加購入

最近、Dogeコインを200NZドルで追加購入しました。そこからさらに見守ってますが、買った値段より下がったので、もう少し様子を見て買った方が良かったですね(笑)

 

Dogeコインはずっと横ばいで大きな変化はありませんが、将来的に大暴落したり、お金に余裕があったら、また追加購入してもいいかなと思います。

どうやら、購入したとき、アドレスとメモと呼ばれる暗証番号は必須のようなので忘れずにメモをしました。

 

Dogeコインは上限無しで発行できると言われているので、価格は上がりにくいのかも知れません。

しかし、海外のツイッターでDogeについてのツイートを見ていると、何かと話題性や人気があり、ファンもいるので買って面白いかなーと思います。

 

それに今のところ「発行する上限が無い」って言われているだけで、もしある日突然Dogeコインが上限以上は発行しないって言われる可能性が無いとは言い切れません。

そうなればDogeコインの価格も上がるでしょう。

僕としては、お金の余裕ができたらDoge以外のコインにも購入してみようかなと思います。

 

よく仮想通貨で100万溶かしたなんていう人がいますが、当然コインの値段は日々上がったり、下がったりします。

コインの値段が大きく下がれば買い足すチャンスなのに、それを自分のお金が無くなったと勘違いして売ってしまうのはもったいないなと思います。

 

仮想通貨で「たられば」は言わない、成功体験も見ない

ネット上によくあるのが、「あの時買っていれば、、」という会話ですが、僕はそう言った思考回路は捨ててます。

「もしも」とか「たられば」の話をしたらキリがないので、なるべく考えないようにしています。

考えただけ無駄ですし、ほとんどの人は暴落したり損したりする可能性がある仮想通貨という物に警戒心を抱くのが普通です。

 

僕自身、仮想通貨について知ったのは2017年の仮想通貨バブルの時です。その時は気にも留めて無かったのですが、やはり「たられば」を言ってしまうと思考を奪われてしまいます。

 

「仮想通貨で億り人」的な成功体験話とかも見ないようにしてますね。

ネットでしっかりと仮想通貨について調べるとしたら、仮想通貨での失敗例や陥りがちなミスですね。

そして、「これから○○コインが上がる」的な予想も見ないようにしています。

こういうことって誰にも予想できないですからね。

 

実はワーホリとバイナンスは親和性が高い

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バイナンスを使ってみて、ワーホリってバイナンスとかなり。親和性が高いんじゃないかなーって思いました。

 

ワーホリはオーストラリアドルカナダドルニュージーランドドルなど外貨を稼ぐことができます。

海外にも銀行が持てるというのが大きな利点です。

 

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一昔前は海外旅行でも銀行口座が作れたと言われますが、今はかなり規制が厳しくなってます。

しかし、ワーホリだと海外の銀行口座を作れますし、何なら現地で外貨も稼げます。

口座維持や手数料がかからないなら、ワーホリ後も銀行口座を持ってて損はないと思います。

 

そして、バイナンスでは取り扱う通貨の種類がめちゃくちゃ多いのがメリットで、日本では買えない仮想通貨も買うことができます。

 

一方、バイナンスのデメリットとして日本円では仮想通貨を購入することができません。

→ここでワーホリで開設した銀行口座と稼いだ外貨の出番です。

ワーホリで作った銀行口座の外貨で仮想通貨を購入します。僕はこの方法でDogeコインを買いました。

ワーホリで口座と外貨を持っていれば、バイナンスで簡単に取り引きできます。これで日本で買えない仮想通貨も買えます。

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最後に招待IDと招待リンクを載せていますので、もし気になる方はぜひ登録してみてください。

 

  • バイナンスウェブサイト

Bitcoin、Ether、アルトコインを売買 | 仮想通貨取引所 | バイナンス

【招待ID】

186229378

【招待リンク】

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オーストラリア人にとっての太平洋戦争とココダの戦いについて解説/ オーストラリアワーホリと留学で知っておきたいこと

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こんにちは、とーしばブログのとしです。

今回はオーストラリアの歴史についてです。以前は、第一次世界大戦ガリポリの戦い]を紹介しましたが、今回は、オーストラリアにとってもう一つ重要な戦いがパプアニューギニアで起こったココダの戦い( Battle of Kokoda) です。 

 

この戦いはオーストラリア人にとっては重要な戦いで、オーストラリアワーホリ留学に行く人は知っていて損はないと思います。

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なぜココダの戦いがオーストラリア人にとって重要だったかというと、オー​​ストラリアへの日本軍の前進を阻止する戦いだったからです。

後から解説しますが、オーストラリア人にとって【ココダの戦い】とは祖国を守るための戦争でした。

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現在では、パプアニューギニアにある全長96キロに渡るココダ街道(Kokoda Trail)はオーストラリア人の人気観光スポットになっています。

歴史的に重要な戦いがあったことを体感する、いわば巡礼地のような感じですね。

 

日本だと学校の授業で習うのは、太平洋戦争第二次世界大戦のほんの一部でココダの戦いは、日本ではほとんど知られていません。

 

むしろ【ニューギニアの戦い】という言葉で知られているかも知れません。しかし、日本でもニューギニアの戦いは、ガダルカナルやミッドウェーよりもマイナーな戦いになっています。

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ニューギニア現地人と負傷したオーストラリア兵の銅像

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しかし、オーストラリアではANZAC (Australia And New Zealand Army Corps)銅像や記念碑をいたるところで見かけます。

そして毎年4月25日のアンザックデー(Anzac Day)はオーストラリア人にとって大切な日です。ガリポリの戦いと同じく、ココダの戦いもアンザックデーに深く関係しています。

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僕がワーホリでオーストラリアにいた時、このような銅像をいたるところで見かけました。

 

ワーホリや留学などで出会うオーストラリア人の中には、直接戦争を体験していなくても、父親や祖父が日本軍と戦っていたという人がいます。

 

[太平洋戦争の戦争の記憶]は、オーストラリア人の間でも[戦争体験]として受け継がれていってます。

どっちが悪いという話は置いておいて、日本人である僕たちも過去にこういうことがあったということを知っておくのは大切だと思います。

 

オーストラリアに行くなら【ガリポリ】と【ココダ】は知っておくべき

オーストラリアは、第一次世界大戦で[ガリポリの戦い]ではイギリス帝国の一員として戦い、太平洋戦争では日本軍の脅威に対して連合軍側としてイギリスとアメリカと協力して戦いました。

 

では、どのような経緯でココダの戦いが起きたのか?を順を追って解説していきたいと思います。

 

ガダルカナル島の戦いと同時期に起きたココダの戦い

まず、日本では1942年の同時期に起きたガダルカナル島の戦いがあまりに有名すぎて、パプアニューギニアでのココダの戦いは、それに隠れてかなりマイナーな存在になっています。

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ガダルカナル島の戦い】といえば、日本の近代史でも名前が出てきますし、ドキュメンタリーでもよく扱われます。

『ザ・パフィシック』シン・レッド・ラインなどでも映画化された戦いなので、どうしてもガダルカナル島の戦いの方が注目されますし有名です。

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ココダの戦いは、ガダルカナルミッドウェー海戦に並んで、それまで負け知らずだった日本軍が敗北する歴史の大きなターニングポイントなのですが、ミッドウェー、ガダルカナルと比べると、ニューギニア(ココダ)については、あまり語られません。

 

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やはり理由としては、アメリカがその後の世界の主導者的な立場になっているので、第二次世界大戦、太平洋戦争はアメリカの視点で語られることが多いからかもしれません。

歴史は勝者によって作られる』と言われますが、戦争映画には少なからずエンタメ要素だけでなく政治的なメッセージも含まれています。

 

そしてミッドウェーガダルカナルでのアメリカ軍の勝利が、ココダの戦いの結果にも大きく影響します。

 

なのでオーストラリア軍の活躍というのは、どうしてもマイナーな存在になってしまいます。

しかし、オーストラリア本国では、第一次世界大戦の時トルコ軍と戦ったガリポリの戦い]と並び

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太平洋戦争での[ココダの戦い]はかなり有名で【男たちの戦場KOKODA】という映画にもなっています。

 

 

太平洋に勢力を急拡大していった日本軍

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真珠湾攻撃の前からすでにオーストラリアは日本が中国大陸、太平洋の島に勢力を拡大していることに危機感を覚えていました。

 

第一次世界大戦の時期から、日本とイギリスが同盟を結んだり、ドイツ領だった中国の青島に勢力を伸ばしたり、ドイツ領だった太平洋の島を代わりに統治したり、少しずつ勢力を拡大させていたからです。

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1941年12月、日本軍は真珠湾を攻撃。同時にマレーシアのコタバルから上陸して、瞬く間にマレーシアとシンガポールを占領。破竹の勢いで東南アジア全域を占領します。

イギリスのシンガポール要塞と東洋艦隊が日本軍に敗北したことは、オーストラリアにとっても衝撃的なニュースでした。

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すでに中国戦線で激戦を勝ち抜いてきた日本軍はとてつもなく強く、イギリス、インド、オーストラリア連合軍では、とても歯が立ちませんでした。

 

シンガポール占領により、オーストラリア軍の多くが日本軍の捕虜になりました。捕虜になったオーストラリア軍の兵士は悲惨な運命をたどります。

 

シンガポールの陥落から2ヶ月後、日本軍はダーウィンを爆撃。いよいよ日本軍の脅威がオーストラリアにも迫ってきます。

 

オーストラリア人にとっての太平洋戦争】とは、

真珠湾攻撃→マレーシア、シンガポール侵攻→パプアニューギニア→周辺の南洋諸島→オーストラリア

という流れで攻めてくる日本軍と戦った戦争だったのです。

 

 

シンガポール陥落後にオーストラリア人捕虜がたどった悲惨な運命

シンガポールが陥落したあと、オーストラリア人兵士15000人を含む13万人が日本軍の捕虜になります。

 

[死の鉄道の建設]

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彼らの運命はかなり悲惨で、全長415キロにおよぶ泰緬鉄道(Burma–Thailand Railway タイとビルマを結ぶ鉄道)を建設するという過酷な強制労働をさせられます。

 

食べ物も無い、医療を受けられない劣悪な環境で、伝染病や過労、栄養失調、虐待などでオーストラリア人捕虜13000人のうち2800名が犠牲になりました。

 

オーストラリア人だけでなく、連合軍兵士、マレーシアやビルマ(ミャンマー)、タイなどのアジア人も犠牲になっています。

 

[悪名高いチャンギ収容所]

シンガポールで捕虜になったオーストラリア人はチャンギ収容所に収容されます。場所は現在のチャンギ国際空港のすぐ横に隣接しています。

そこでは過酷な収容所生活が待っていました。この収容所も日本では有名ではありませんが、オーストラリア人にとって戦争の記憶です。

チャンギ収容所にいた捕虜は死の鉄道の建設やサダンカン収容所での強制労働のために移送されます。

チャンギ収容所が連合軍によって解放されるのが日本軍が降伏した後の1945年9月でした。

解放された兵士たちは、ガリガリにやせ細って骨と皮ような状態だったようです。

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チャンギー収容所]

 

[サンダカン死の行進]

そして、オーストラリアで有名な日本軍による事件がインドネシアボルネオ島にあるサンダカン収容所で起きた[サンダカン死の行進]です。

1944年、戦争に負けつつあった日本軍は収容所を他へ移すことを考えます。

サダンカン収容にいたオーストラリア人、イギリス人捕虜が日本軍によって約260キロもの道のりを歩かされ、その多くが餓死したり、マラリアなどで病死したり、処刑されて命を落としました。

その中で生き残ったのが2500人中、6名、死亡率がなんと99%という衝撃的な事件も起きました。

 

終戦後のオーストラリアによる裁判]

終戦後、[サンダカン死の行進][死の鉄道の建設]を指揮した日本軍の責任者がオーストラリア軍によって有罪判決を受けています。

 

一部のオーストラリア人のお年寄りが反日感情を持つ理由

今では世代交代というのもあり、だいぶ減ったのかもしれませんが、ごくごくオーストラリア人の一部で反日感情のは、こういう歴史的な理由があります。(もちろん、これ以外にもアジア人自体を差別してくる人もいます。)

 

一昔前だと、もっと露骨に反日感情を日本人観光客や留学生に向けてくるオーストラリア中国人のお年寄りがいたという話もこういう時代背景があるだと思います。

 

オーストラリアへの日本軍によるダーウィンとブルームへの爆撃

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真珠湾攻撃から2ヶ月後には、オーストラリア北部にあるダーウィンが空襲を受けます。ダーウィン終戦までに少なくとも63回もの爆撃を受けました。

ブルーム、クイーンズランド北部も日本軍の空襲を受けます。これらの空襲でオーストラリア軍の港や基地だけでなく、民間人にも大きな被害が出ました。

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この攻撃は、真珠湾を奇襲攻撃したあの4隻の空母機動部隊によって行われました。このダーウィン空襲はオーストラリアの士気を下げる狙いもあったと言われています。

 

マッカーサーがオーストラリアに拠点を移す

1942年、フィリピンが日本軍に占領されると連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは「I shall return 私は必ず戻ってくる」という有名な言葉を残してオーストラリアへと逃れます。

 

オーストラリアは、ヨーロッパでナチスとの戦っているイギリスと協力するよりも、アメリカ軍と協力して日本軍と戦うことを選びます。

 

日本軍はオーストラリアが連合軍の新たな拠点になると考え、オーストラリア侵攻の足がかりとしてパプアニューギニアに上陸することを考えます。

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さらにマーシャル諸島、トラック諸島には日本軍の重要な基地があり連合軍への攻撃が可能でしたが、逆にポートモレスビーにある連合軍の基地から攻撃されていました。

ポートモレスビーを占領すれば、オーストラリア、アメリカ軍に大きな打撃を与えることができます。

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余談ですが、ニューギニア沖にあるニューブリテン島のラバウルといえばゲゲゲの鬼太郎の作者、水木しげるさんがいたことでも有名です。

日本軍のラバウル基地があったニューブリテン島から見るとパプアニューギニアとオーストラリアは目と鼻の先にあったことが分かります。

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Googleマップガダルカナル島の位置を見るとケアンズのすぐ近くだと分かります。

 

日本軍は本当にオーストラリアのすぐそこまで来ていたんですね。

オーストラリアとしては、もし日本軍が山脈を越えてポートモレスビーを占領されてしまうと、そこから攻めてくるという恐怖心が人々にはあったのではないかと思います。

それだけにオーストラリア人にとってはココダの戦いは絶対に負けられない戦いだったんですね。

 

しかし、日本軍にとっても海からポートモレスビーを攻撃しようとしたものの失敗します。

 

作戦変更で、2千メートル級の山脈が連なり島全体がジャングルに覆われたニューギニアを横断してポートモレスビーを攻撃する作戦に変更されます。これが地獄の戦いの始まりでした。

 

 

 

オーストラリア人にとって絶対負けられない【ココダの戦い】

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日本軍は、オーストラリア侵攻の足がかりとして、オーストラリア軍の重要な基地であるポートモレスビー海上から攻撃しようとするも、アメリカ、オーストラリア海軍との戦いに敗れ失敗します。

 

しかし、日本軍は諦めず、ラバウル基地を拠点にしてブナゴナという地点からパプアニューギニアに上陸、4000メートル級の山脈を通りポートモレスビーを目指していました。

 

そしてココダ街道(Kokoda Trail)をなんとしても死守しようとするオーストラリア軍ポートモレスビーを目指す日本軍との戦いになります。

 

日本軍はポートモレスビーの目前まで迫りますが、ミッドウェーとガダルカナルでの敗北により、あと一歩のところで撤退します。

 

実質的には、【オーストラリア軍のココダの戦いでの奮戦】というよりも、日本軍上層部の作戦ミスとミッドウェー、ガダルカナルの敗北によりオーストラリア侵攻は避けられました。

 

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ココダでの7ヶ月間の戦いで、1万人以上の日本兵が犠牲になり、オーストラリア兵は600人が戦死、1600人が負傷しました。しかし、ニューギニアでの戦いは終わったわけではなくこの後も3年続くことになります。

 

日本軍の兵士の多くが戦闘で亡くなっただけでなく、餓死やマラリアデング熱などの熱帯病で病死して命を落としました。

オーストラリア軍は空輸での補給があり、日本軍との戦いを有利に進めていきます。日本軍は物資の補給がない孤立した状態で戦うことになります。

 

【ココダの戦い】はオーストラリア本土を守るための戦争

オーストラリア人にとって【ココダの戦い】は日本軍の脅威から祖国を守るための重要な戦いだったわけです。

 

いわばココダとは、オーストラリア人にとっては【愛国心の象徴】でもあるんですね。これはどの国の人にとっても同じですね。アンザックデーもある意味、祖国を守るために戦った人々に敬意を表すため

の儀式ですし、戦争での犠牲者を忘れないという意味も含まれています。

 

 

パプアニューギニア人にとっての戦争、オーストラリアを救った天使たちの活躍

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平和に暮らしていたパプアニューギニア人も太平洋戦争により、オーストラリア、アメリカ連合軍に協力します。この戦争によって現地人も多くが戦争の犠牲者になりました。

ニューギニア人は侵略者としての日本軍、占領者としてのオーストラリア軍の双方に協力しました。自発的に協力したり、時には強制だったりしたようです。

 

太平洋戦争が始まる前、ニューギニア島の西側がオランダ、東側がオーストラリアの管理下にありました。ニューギニア人はオーストラリア人から二級国民として扱われていました。

 

しかし、ニューギニアの原住民は、オーストラリア兵に食料や避難所を提供したり、負傷して孤立した兵士を担架で救出しました。ニューギニアの地形をよく知っていた先住民はオーストラリア軍の案内役も務めます。

 

オーストラリア人は感謝の意を込めて「Fuzzy Wazzy Angel」と呼んでいました。

Fuzzy Wazzy ファジー・ワジー】とは、先住民の縮れたフワフワの髪の毛からそう呼ばれていました。

このファジー・ワジー・エンジェルのエピソードもココダの戦いと同じくオーストラリアでは有名です。

 

ニューギニア人の活躍は、それまで未開人としか思っていなかったオーストラリア人の心に変化を起こさせます。戦後、1975年パプアニューギニアは独立を果たします。

 

 

日本軍も現地人に食料をもらったり、手当をしてもらい助かった人もいたようですが、一方では食料の補給が無いギリギリの状態で戦っており、軍のトップも「現地調達」を命令します。このことがニューギニアでの原住民の村を襲撃したり、略奪が横行する原因になりました。

日本軍によって村を追われた人や家族を殺された人が大勢います。

パプアニューギニアの人たちにとっても戦争の記憶が深く残っており、日本軍の残虐行為を忘れないお年寄りもいます。

 

オーストラリアでは戦後、このFuzzy Wazzy Angel(ちぢれ髪の天使)のエピソードが有名になり、パプアニューギニア人もオーストラリア政府によって表彰されています。

 

上層部の無謀な作戦で多く日本軍の兵士が犠牲になった

日本軍の兵士たちにとって、パプアニューギニアでの戦いはかなり悲惨な戦いで多大な犠牲者が出ました。 

 

作戦が行われる前からの下調べで、ニューギニア島の大きさが日本の本土の3倍で、標高4000メートル級の山脈を超えることは非常に困難であると言うことが分かっていました。

 

軍の上層部も「攻略は不可能」だと主張していますが、一部の参謀の独断によって作戦が行われます。

 

作戦を決めた上層部は、ニューギニアを地図上でしか知りませんでした。しかも4000メートル級の山々とジャングルに覆われた険しい地形で、補給もなしに戦えないということすら理解していませんでした。

しかも、その参謀は戦後は生き延び政治家にまでなっています。

 

ニューギニアに上陸した14万人の兵士のうち生きて帰ってこれたのはわずか1万人だったと言われています。

 

今でも【玉砕】という言葉で語られますが、軍の無謀な作戦のせいで、多くの兵士が犠牲になったのは事実です。

戦死よりも、軍の無謀な作戦による餓死と病死で亡くなった人がほとんどだったと言われています。

 

兵士たちは、武器弾薬、食料も無いまま戦えるはずもありません。食べ物が無い中で日本人の兵士は木の根、草の根から、食べれる物は全て食べて、雨水を飲み、最終的には死んだ仲間の兵士の肉まで食べたと言われています。


さらにはオーストラリア人兵士の遺体から肉を切り取って食べた日本軍兵士が戦後裁判にかけられたという事件もあったようです。

 

日本軍のカニバリズムの真相については賛否両論がありますが、それだけ餓死者が出て食べ物が無いくらい極限状態だったということが分かります。

 

大岡昇平[野火]というフィリピンでの戦いを書いた小説でもある兵士のセリフで「俺たちはニューギニアじゃ人肉まで食って苦労してきた兵隊だ」というセリフが出てきます。

この小説では仲間の兵士を殺して食べる兵士が出てきますが、ニューギニアでもこうした事態が起きた報告されています。そして主人公も人肉を食べます。

 

しかし、軍司令官部は、降伏して捕虜になることを許さず、食料、武器も無く孤立したためにこうした悲劇が起こりました。ニューギニアでの戦い以降も似たような状況が繰り返し起こります。

 

あまりに悲惨な戦いに兵士の間では、「死んでも帰れぬ ニューギニアと言われるくらいニューギニアでの戦いは悲惨な戦いでした。

「死んでも帰れぬ」という言葉通りニューギニアには、終戦から70年以上経った今でも多くの日本の兵の遺骨が日本に帰れぬまま眠っています。

 

オーストラリアの2ドルコインの男性は誰?/ オーストラリアの虐殺を生き延びたグウォヤ・ジュンガライについて

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今回はあまり知られていないオーストラリアの2ドルコインの歴史についてです。

この2ドルコインにはサザンクロスの下にアボリジニーの男性の絵が描かれています。

きっとオーストラリアにワーホリや留学に来ていた人はお馴染みのコインではないでしょうか?

 

この2ドルに絵が描かれているアボリジニーの男性はグウォヤ・ジュンガライ(Gwoya Jungarai 1895年〜1965年)という名前です。

 

彼はノーザンテリトリーアリススプリングスの北西約200キロにあるタナミ砂漠で生まれました。

 

そして、彼は1928年に起こったオーストラリア中央部のコニストンの虐殺を唯一生き延びたアボリジニーとしても知られています。

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↑タナミ砂漠はアリススプリングスの北西部に位置しています。

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そしてGoogleマップで見ると彼の生まれたタナミと虐殺が起こったコニストンとは近い位置関係にあることが分かります。

 

彼は中央オーストラリアのコニストン牛舎近くで起きた虐殺を生き延びましたが、彼の親戚の多くは虐殺されました。そして彼は捕らえられますが、なんとか脱出してアルトゥンガという地域に逃げ延びたと言われています。

 

公式記録によると虐殺された人の数は31人ですが、他の調査では虐殺された男性、女性、子供の数は70人〜最大110人になると言われています。  


この事件の時代背景として、もともと住んでいたアボリジニーの人々は入植してきたイギリス人によって住む場所を追われます。

入植者たちによって祖先が守ってきた土地を占有されたり、アボリジニーの聖地を荒らされたことで両者の間では争いや対立が絶えなかったようです。

 

虐殺を生き延びたあと、ジュンガライはブーメランを作りをして1ポンドで販売していました。

その様子から彼は「1ポンドのジミー」として知られ、その名がオーストラリア中で知られるようになります。

 

ワルピリ族の長老である彼はまた、伝統的なアボリジニー部族の弁護士、土地管理人、仲介者、訪問者のガイドもしていました。

さらに、アボリジニーの伝統的な法律やアボリジニー文化の知識が将来の世代に受け継がれるように活動していました。

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そんな彼を撮った写真が1936年に[ウォーク・アバウト]という雑誌の表紙に掲載されると、ジュンガライは一躍世界の注目を集めました。そして1950年に彼の写真が再び雑誌の表紙に載り、彼の肖像画が絵描かれた切手も販売されました。

 

そして、1988年ジュンガライの肖像が2ドルコインのデザインとして採用されることになります。

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当時、オーストラリアの2ドルはコインではなく紙幣でした。

王立オーストラリア造幣局によると、新しい2ドル硬貨のデザインは「伝統的なオーストラリアのアボリジニの頭と肩の表現、サザンクロスの表現、オーストラリアの植物相の表現」が求められていました。

コインをデザインするとき、コインの「裏」の理想的なアボリジニーの男性の肖像としてジュンガライの肖像が選ばれました。

 

しかし、彼が生き延びた虐殺についてや植民地時代のアボリジニーの歴史についてはまだまだ知られていないのが現状のようです。

 

ニュージーランドはオーストラリアよりも最低時給が高い国に/ついに最低時給が20ドルまで上昇

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ニュージーランドはオーストラリアよりも最低時給が高い国に

こんにちは、とーしばブログのとしです。

最近ニュージーランドの最低時給をネットでチェックしていたのですが、なんとニュージーランドがいつの間にかオーストラリアよりも高い国になっていました。

2021年現在、オーストラリアの最低時給が19.84ドルです。

労働党(Labour Party)ニュージーランドファースト(New Zealand First)の連立政府は2017年頃から公約として2021年までに最低賃金を20ドルまで引き上げると宣言していて、見事にその公約を果たしました。

 

ニュージーランドでは、毎年4月に最低時給が上がります。僕がニュージーランドにいた2019年4月ごろは時給16.50ドルで、働いていた職場ではプラス50セント時給は17ドルでした。

 

それが2020年に18.90ドルで、2021年4月からは時給20ドルに上がりました。日本円だと1NZドル81円で計算すると1634円ですね。

しかも祝日は1.5倍になるので時給30ドル(2430円)です。

 

しかし、最低賃金が上がる分だけ所得税も上がるようなので、手取りだと時給17ドル(1390円)くらいになるようです。

 

確かにデメリットとして、物価が上がったり、最低賃金を支払えない中小企業が出てきたり、支障はあるかもしれませんが、働く側からしたらメリットは大きいんじゃないかと思います。

 

よく最低時給が上がると物価が上がると言われますが、20年くらい最低賃金が大きく変わらなかった日本について考えてみても、物価は確実に上昇しています。

 

なんだかんだで日本でもずっと800円、900円、多くて1000円くらいの最低賃金で働いているわりに税金や生活コスト、物価は上昇していますよね?

 

日本でも最低賃金論争はよく見かけるようになってきましたが、ニュージーランドのように政府主導で強制的にでも労働者に支払う賃金は上げた方がいいのでは?と思いますし、日本の時給はまだまだ安いなと思います。

 

 

 

↓詳しく知りたい方はこのサイトがかたり参考になります。

 

 

 

ワーホリの節約飯といえばミーゴレン/お金が無い時のワーホリの節約飯を紹介

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こんにちは、とーしばブログのとしです。

今回はワーホリの節約飯ミーゴレン(Migoreng)についてです。だいたい5パック入って2.75ドルくらいでスーパーで売られてます。

たぶん、オーストラリアでワーホリしていた人にとっては、お馴染みでは無いでしょうか?

僕はオーストラリアワーホリ時代によくお世話になってました。

オーストラリアってかなり物価が高い国なので、わりと金欠になる人が多いんですよね。

 

僕もオーストラリアワーホリ1年目のお金がない時は、ご飯とミーゴレンが夕食ということもよくありましたね。1袋が小さいので足りない時は2袋で作ってました。

 

もともとはインドネシアの料理みたいなのですが、お金の無いワーホリメーカーの定番の節約飯ですね。 ColesWoolworth で普通に売られてます。

日本のアマゾンで調べると10袋で1392円でした。輸入しているからか、ちょっと高いので、これではあまり節約飯という感じでは無いですね(笑)

 

もっと安い食品でColes やWoolworth のホームブランドのチキンヌードルとかビーフヌードルがあるのですが、正直あんまり美味しく無いです。

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そして辛ラーメンのようなコリアンヌードルは一袋1ドルとか4、5袋入りで5ドルくらいして、ちょっと高いので小腹が空いた時やお金が無い時にはミーゴレンでした。

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でもミーゴレンってずっと食べてると飽きてくるんで、お金にちょっと余裕が出てきたらコリアンヌードルでしたね。バリエーションが豊富ですし、日本の一般的なスーパーだとあまり見かけないコリアンヌードルも普通にありました。

 

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ミーゴレンの作り方は日本のインスタント焼きそばと同じ作り方で、まず麺を茹でて、お湯は捨てて、麺に粉と油とソースが一緒になったソースと辛いソースと黒いソースの3種類の調味料を振りかけて出来上がりです。味はちょっと体に悪そうなんですが、意外とクセになる味です。

 

たいてい2、3種類くらいのバリエーションが売ってるのですが、実はもっと種類があるらしいです。

 

どうやらインドネシア語Miが麺、Gorengが揚げるという意味らしく。英語だとそのままFried noodle (焼きそば)ですね。

 

麺と粉と調味料を入れてフライパンで炒めるとさらに美味しさが増します。目玉焼きを乗せるとより贅沢感が増して美味しいですね。

 

あとはミーゴレンと同じくらい定番のワーホリ節約飯は、1.25ドル〜2ドルくらいで売ってる薄切りの食パンですね。

ただしーカビが生えるので買って一週間くらいしか持たないので、冷凍保存すると長持ちするらしいです。

それでも、ずっと安い食パンだと飽きてくるんですよね。ヌテッラがあったら最高なんですが、自分は安いジャムで食べてました。

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あとは、パスタが定番ですね。これもよくお世話になってました。こんな感じに65セントとか1ドルくらいで売ってるんですね。

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僕自身、ワーホリ期間が長かったせいか、パスタは節約飯という方程式が自分の中で出来上がってしまいあまりオシャレな食べ物では無くなったんですよね。

パスタもミーゴレン、薄切り食パンと同じく節約飯の定番でした。

ただ、どの食品も値段が安いからか保存料や薬品を使ってる感じの味がして、あまり健康的ではありませんし、何よりずっと食べてると飽きてきます。

貧乏生活には心強いですが、やはりある程度お金に余裕が出てきたら肉や野菜、果物などバランスよく食べた方がいいですね。

ニュージーランドのホテルのハウスキーピングについて振り返る

こんにちは、とーしばブログのとしです。

今回は久々にニュージーランドのホテルのハウスキーピングについての話です。 

 

朝はミーティングが済んだら各チームで担当のホテルに行きます。僕の担当するホテルでは2人1組で作業する職場でした。2年目からは3つのホテルのうちのどれかを担当していました。

 

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週初めだったら次の出勤日や休みを確認します。休みは毎週ランダムなので6日ずっと休みがない日もあれば、1日、2日仕事したらまた休みというスケジュールもありました。

今週、来週の休みが連続で重なって三連休なんてこともよくありましたね。

 

仕事も人間関係もストレスがほぼ無かったのもあって、日本でよくあるような日曜日の夕方に仕事のことを考えて憂鬱ということにはなりませんでした。

 

ミーティングとストレッチが終わり、スーパーバイザーから予定表をもらった時にGoneルーム(チェックアウトルーム)があれば、だいたいそこから仕事をスタートさせます。アライバルルームだとだいたい1時間くらい。サービスだと30分くらいで掃除します。

(中国系やインド系のゲストだと掃除が大変で、アライバルルームでも1時間半〜2時間かかることもありました。)

 

朝からGoneルームが無いこともけっこうあって、サービスルームもゲストがまだルームにいたり、寝てたりするので下手にノックして部屋に行くわけには行かないんですよね。

 

朝イチではなくてしばらく経ってからサービスルームはゲストにルームを掃除する時間を聞いたり、部屋に誰もいなかったらサービスルームを掃除していました。

 

運良くゲストがチェックアウトするのを見かけたら、遠くから様子を見守って姿が見えなくなったら、すかさずルームに入って掃除したりもできましたね。

 

自分のチームの予定表でGoneルームが無い時は、他のチームでGoneルームがあるチームに掃除する部屋を交換してもらったりしていました。

 

中には2、3部屋同時にgoneがあったりするチームもあるんですね。逆にこっちのチームで余分にサービスやアライバルルームがあったら仕事が無いチームと交換したり、仕事が無いチームが応援で朝イチにヘルプに来てくれたりしてました。

ハウスキーピングって、朝イチの仕事初めが一番やることが無かったりするんですよね。掃除ができる空いているルームがあるかはゲスト次第ですね。

 

最初だけGoneやサービスがあって、あとは午後からしか掃除できる部屋が無いってこともありました。その時は他のチームのヘルプをしてました。

 

Goneが出たらスーパーバイザーがメールで知らせてくれます。こっちから電話やメールで確認することもあって、Goneが無いか?ヘルプでどこか仕事が無いか?など、スーパーバイザーに聞いたりもしてました。

 

他のチームも全く掃除するルームが無い時は一緒に掃除したりしてましたね。2人一組のチームが2つなんで4人で一つのルームを掃除するなんてこともあって、途中にどっちかのチームでGoneルームが出たらGoneルームがある方はそっちを優先してました。

 

4人くらい集まるとわいわいと賑やかに仕事をしてましたね。掃除する時に音楽もかけれるのでスマホでみんな音楽をかけてました。

 

あの2017、2018年くらいの時はラテン系の曲が流行ってた頃で、コロンビアやチリ、アルゼンチン出身のチームメイトも多かったからか、常にラテン系の曲か流行りの英語の曲がかかってました。

 

そして、本当にGoneルームもサービスルームもない時はストアルーム(トロリーのタオルやアメニティがある部屋)でトロリーのタオルやアメニティを補充したり、ストアルルームで休んでましたね。

 

休んでる時は、同じチームになった九州のホテルの専門学校の研修生で仲がいい人や他の国のチームメイトともいろいろ話をしたりすることもあれば、座って少し仮眠をとってみたり、スマホを見てる時もありました。

ストアルームで休んだり、掃除した後にルームのソファでくつろいだり出来ました。もともと四つ星ホテルなので部屋の眺めがよく、長期滞在、大人数やファミリー向けのルームなので大きなルームでしたね。

 

30分、40分くらい休んで様子見をしてから、またサービスとかアライバルルームが無いかチェックします。

運が良かったら、ゲストがチェックアウトしたルームがあり仕事に取りかかれます。

 

中には全く使われていないルームや少ししか滞在していないルームもあって、そういう時はルームをささっと終わらせてから休憩していましたね。

 

このホテルのハウスキーピングは日によっては休む時間も多くてルームで休んだりできました。

ハウスキーピングといえば常に時間に追われながらやる仕事なのですが、ニュージーランドのこのホテルはそうじゃなかったですね。ランチも好きなタイミングで行ってました。

人が多くて嫌な時はわざと時間をずらして休憩に行ったり、仲のいいチームメンバーが休憩に行くタイミングで休憩に行ったり、忙しくない日は30分の休憩を40、50分休憩できたりもしました。

もちろん常に休んだりということはなくて、早く終わったり、ヘルプも無くてやることが無い時は、ちょくちょく10分くらいの休憩を挟んで仕事できたって意味です。

 

それでも最低限3クレジット(1アライバルで1クレジット、2サービスで1クレジット)くらいはルームの掃除を終わらせてから行ってましたね。

 

働かせているホテル側(企業側)からしたら、仕事の効率が悪く、こんなに休んだり非効率に仕事をされたらいい迷惑なのかもしれませんが、働く側からしたら本当に働きやすかったです。

 

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1か月有給もありましたし、使わなかったらお金に換金してくれるんですよね。たいていは1か月有給を取ったり1ヵ月+無給で1ヵ月の計2ヵ月で休みを取る人も割といました。

 

ここのホテルは、仕事のやり方や進め方を自由に決めて判断できる範囲が広いですし、休んだりしながらできるので、ずっと働き続けて、時間に追われて精神的にもすり切れるということは全く無かったですね。

 

それとは逆にバンフのRim Rockホテルなんかが、その対局に位置するようなホテルで、ギリギリまでスケジュールを詰め詰めに入れられててて、本当に猫の手も借りたいくらい忙しくて休む暇がないくらいでした。本当に効率重視、ホテル側の利益を最大化するみたいな職場でしたね。

 

そして、2年目にニュージーランドのホテルを辞めました。理由としては、当時はカナダワーホリにも行ってみたくて、バンフにも興味があったんですよね。

なのでニュージーランドのホテルは2年だけ仕事をして、次の年はカナダワーホリに行きました。

 

カナダで散々な結果になって失敗したから言えることかもしれませんが、今から考えると3年目もニュージーランドのホテルで仕事をしておけばなーって思います。

 

その後の2020年はご存じのように中国の武漢新型コロナウイルスが発生、世界的なパンデミックで僕がかつて働いていたクイーンズタウンのホテルもハウスキーピングは、数人のスタッフとマネージャー以外は全員解雇されてしまいました。

 

Facebookやインスタを見ると、だいたいのハウスキーピングメンバーは、国に帰ってそれぞれの仕事をしていたり、ニュージーランドの他の場所で仕事をしていたり、ホテルに残ったメンバーも一部いますが、他の部署に移ったりしていますね。

 

 

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