こんにちは、とーしばブログのとしです。
今回はオーストラリアの歴史についてです。以前は、第一次世界大戦[ガリポリの戦い]を紹介しましたが、今回は、オーストラリアにとってもう一つ重要な戦いがパプアニューギニアで起こったココダの戦い( Battle of Kokoda) です。
この戦いはオーストラリア人にとっては重要な戦いで、オーストラリアワーホリや留学に行く人は知っていて損はないと思います。
なぜココダの戦いがオーストラリア人にとって重要だったかというと、オーストラリアへの日本軍の前進を阻止する戦いだったからです。
後から解説しますが、オーストラリア人にとって【ココダの戦い】とは祖国を守るための戦争でした。
現在では、パプアニューギニアにある全長96キロに渡るココダ街道(Kokoda Trail)はオーストラリア人の人気観光スポットになっています。
歴史的に重要な戦いがあったことを体感する、いわば巡礼地のような感じですね。
日本だと学校の授業で習うのは、太平洋戦争と第二次世界大戦のほんの一部でココダの戦いは、日本ではほとんど知られていません。
むしろ【ニューギニアの戦い】という言葉で知られているかも知れません。しかし、日本でもニューギニアの戦いは、ガダルカナルやミッドウェーよりもマイナーな戦いになっています。
しかし、オーストラリアではANZAC (Australia And New Zealand Army Corps)の銅像や記念碑をいたるところで見かけます。
そして毎年4月25日のアンザックデー(Anzac Day)はオーストラリア人にとって大切な日です。ガリポリの戦いと同じく、ココダの戦いもアンザックデーに深く関係しています。
僕がワーホリでオーストラリアにいた時、このような銅像をいたるところで見かけました。
ワーホリや留学などで出会うオーストラリア人の中には、直接戦争を体験していなくても、父親や祖父が日本軍と戦っていたという人がいます。
[太平洋戦争の戦争の記憶]は、オーストラリア人の間でも[戦争体験]として受け継がれていってます。
どっちが悪いという話は置いておいて、日本人である僕たちも過去にこういうことがあったということを知っておくのは大切だと思います。
オーストラリアに行くなら【ガリポリ】と【ココダ】は知っておくべき
オーストラリアは、第一次世界大戦で[ガリポリの戦い]ではイギリス帝国の一員として戦い、太平洋戦争では日本軍の脅威に対して連合軍側としてイギリスとアメリカと協力して戦いました。
では、どのような経緯でココダの戦いが起きたのか?を順を追って解説していきたいと思います。
ガダルカナル島の戦いと同時期に起きたココダの戦い
まず、日本では1942年の同時期に起きたガダルカナル島の戦いがあまりに有名すぎて、パプアニューギニアでのココダの戦いは、それに隠れてかなりマイナーな存在になっています。
【ガダルカナル島の戦い】といえば、日本の近代史でも名前が出てきますし、ドキュメンタリーでもよく扱われます。
『ザ・パフィシック』や『シン・レッド・ライン』などでも映画化された戦いなので、どうしてもガダルカナル島の戦いの方が注目されますし有名です。
ココダの戦いは、ガダルカナル、ミッドウェー海戦に並んで、それまで負け知らずだった日本軍が敗北する歴史の大きなターニングポイントなのですが、ミッドウェー、ガダルカナルと比べると、ニューギニア(ココダ)については、あまり語られません。
やはり理由としては、アメリカがその後の世界の主導者的な立場になっているので、第二次世界大戦、太平洋戦争はアメリカの視点で語られることが多いからかもしれません。
⇒『歴史は勝者によって作られる』と言われますが、戦争映画には少なからずエンタメ要素だけでなく政治的なメッセージも含まれています。
そしてミッドウェーとガダルカナルでのアメリカ軍の勝利が、ココダの戦いの結果にも大きく影響します。
なのでオーストラリア軍の活躍というのは、どうしてもマイナーな存在になってしまいます。
しかし、オーストラリア本国では、第一次世界大戦の時トルコ軍と戦った[ガリポリの戦い]と並び
太平洋戦争での[ココダの戦い]はかなり有名で【男たちの戦場KOKODA】という映画にもなっています。
太平洋に勢力を急拡大していった日本軍
真珠湾攻撃の前からすでにオーストラリアは日本が中国大陸、太平洋の島に勢力を拡大していることに危機感を覚えていました。
第一次世界大戦の時期から、日本とイギリスが同盟を結んだり、ドイツ領だった中国の青島に勢力を伸ばしたり、ドイツ領だった太平洋の島を代わりに統治したり、少しずつ勢力を拡大させていたからです。
1941年12月、日本軍は真珠湾を攻撃。同時にマレーシアのコタバルから上陸して、瞬く間にマレーシアとシンガポールを占領。破竹の勢いで東南アジア全域を占領します。
イギリスのシンガポール要塞と東洋艦隊が日本軍に敗北したことは、オーストラリアにとっても衝撃的なニュースでした。
すでに中国戦線で激戦を勝ち抜いてきた日本軍はとてつもなく強く、イギリス、インド、オーストラリア連合軍では、とても歯が立ちませんでした。
シンガポール占領により、オーストラリア軍の多くが日本軍の捕虜になりました。捕虜になったオーストラリア軍の兵士は悲惨な運命をたどります。
シンガポールの陥落から2ヶ月後、日本軍はダーウィンを爆撃。いよいよ日本軍の脅威がオーストラリアにも迫ってきます。
【オーストラリア人にとっての太平洋戦争】とは、
真珠湾攻撃→マレーシア、シンガポール侵攻→パプアニューギニア→周辺の南洋諸島→オーストラリア
という流れで攻めてくる日本軍と戦った戦争だったのです。
シンガポール陥落後にオーストラリア人捕虜がたどった悲惨な運命
シンガポールが陥落したあと、オーストラリア人兵士15000人を含む13万人が日本軍の捕虜になります。
[死の鉄道の建設]
彼らの運命はかなり悲惨で、全長415キロにおよぶ泰緬鉄道(Burma–Thailand Railway タイとビルマを結ぶ鉄道)を建設するという過酷な強制労働をさせられます。
食べ物も無い、医療を受けられない劣悪な環境で、伝染病や過労、栄養失調、虐待などでオーストラリア人捕虜13000人のうち2800名が犠牲になりました。
オーストラリア人だけでなく、連合軍兵士、マレーシアやビルマ(ミャンマー)、タイなどのアジア人も犠牲になっています。
[悪名高いチャンギ収容所]
シンガポールで捕虜になったオーストラリア人はチャンギ収容所に収容されます。場所は現在のチャンギ国際空港のすぐ横に隣接しています。
そこでは過酷な収容所生活が待っていました。この収容所も日本では有名ではありませんが、オーストラリア人にとって戦争の記憶です。
チャンギ収容所にいた捕虜は死の鉄道の建設やサダンカン収容所での強制労働のために移送されます。
チャンギ収容所が連合軍によって解放されるのが日本軍が降伏した後の1945年9月でした。
解放された兵士たちは、ガリガリにやせ細って骨と皮ような状態だったようです。
[チャンギー収容所]
[サンダカン死の行進]
そして、オーストラリアで有名な日本軍による事件がインドネシアのボルネオ島にあるサンダカン収容所で起きた[サンダカン死の行進]です。
1944年、戦争に負けつつあった日本軍は収容所を他へ移すことを考えます。
サダンカン収容にいたオーストラリア人、イギリス人捕虜が日本軍によって約260キロもの道のりを歩かされ、その多くが餓死したり、マラリアなどで病死したり、処刑されて命を落としました。
その中で生き残ったのが2500人中、6名、死亡率がなんと99%という衝撃的な事件も起きました。
[終戦後のオーストラリアによる裁判]
終戦後、[サンダカン死の行進]や[死の鉄道の建設]を指揮した日本軍の責任者がオーストラリア軍によって有罪判決を受けています。
一部のオーストラリア人のお年寄りが反日感情を持つ理由
今では世代交代というのもあり、だいぶ減ったのかもしれませんが、ごくごくオーストラリア人の一部で反日感情のは、こういう歴史的な理由があります。(もちろん、これ以外にもアジア人自体を差別してくる人もいます。)
一昔前だと、もっと露骨に反日感情を日本人観光客や留学生に向けてくるオーストラリア中国人のお年寄りがいたという話もこういう時代背景があるだと思います。
オーストラリアへの日本軍によるダーウィンとブルームへの爆撃
真珠湾攻撃から2ヶ月後には、オーストラリア北部にあるダーウィンが空襲を受けます。ダーウィンは終戦までに少なくとも63回もの爆撃を受けました。
ブルーム、クイーンズランド北部も日本軍の空襲を受けます。これらの空襲でオーストラリア軍の港や基地だけでなく、民間人にも大きな被害が出ました。
この攻撃は、真珠湾を奇襲攻撃したあの4隻の空母機動部隊によって行われました。このダーウィン空襲はオーストラリアの士気を下げる狙いもあったと言われています。
マッカーサーがオーストラリアに拠点を移す
1942年、フィリピンが日本軍に占領されると連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは「I shall return 私は必ず戻ってくる」という有名な言葉を残してオーストラリアへと逃れます。
オーストラリアは、ヨーロッパでナチスとの戦っているイギリスと協力するよりも、アメリカ軍と協力して日本軍と戦うことを選びます。
日本軍はオーストラリアが連合軍の新たな拠点になると考え、オーストラリア侵攻の足がかりとしてパプアニューギニアに上陸することを考えます。
さらにマーシャル諸島、トラック諸島には日本軍の重要な基地があり連合軍への攻撃が可能でしたが、逆にポートモレスビーにある連合軍の基地から攻撃されていました。
ポートモレスビーを占領すれば、オーストラリア、アメリカ軍に大きな打撃を与えることができます。
余談ですが、ニューギニア沖にあるニューブリテン島のラバウルといえば[ゲゲゲの鬼太郎]の作者、水木しげるさんがいたことでも有名です。
日本軍のラバウル基地があったニューブリテン島から見るとパプアニューギニアとオーストラリアは目と鼻の先にあったことが分かります。
↑Googleマップでガダルカナル島の位置を見るとケアンズのすぐ近くだと分かります。
日本軍は本当にオーストラリアのすぐそこまで来ていたんですね。
オーストラリアとしては、もし日本軍が山脈を越えてポートモレスビーを占領されてしまうと、そこから攻めてくるという恐怖心が人々にはあったのではないかと思います。
それだけにオーストラリア人にとってはココダの戦いは絶対に負けられない戦いだったんですね。
しかし、日本軍にとっても海からポートモレスビーを攻撃しようとしたものの失敗します。
作戦変更で、2千メートル級の山脈が連なり島全体がジャングルに覆われたニューギニアを横断してポートモレスビーを攻撃する作戦に変更されます。これが地獄の戦いの始まりでした。
オーストラリア人にとって絶対負けられない【ココダの戦い】
日本軍は、オーストラリア侵攻の足がかりとして、オーストラリア軍の重要な基地であるポートモレスビーを海上から攻撃しようとするも、アメリカ、オーストラリア海軍との戦いに敗れ失敗します。
しかし、日本軍は諦めず、ラバウル基地を拠点にしてブナとゴナという地点からパプアニューギニアに上陸、4000メートル級の山脈を通りポートモレスビーを目指していました。
そしてココダ街道(Kokoda Trail)をなんとしても死守しようとするオーストラリア軍とポートモレスビーを目指す日本軍との戦いになります。
日本軍はポートモレスビーの目前まで迫りますが、ミッドウェーとガダルカナルでの敗北により、あと一歩のところで撤退します。
実質的には、【オーストラリア軍のココダの戦いでの奮戦】というよりも、日本軍上層部の作戦ミスとミッドウェー、ガダルカナルの敗北によりオーストラリア侵攻は避けられました。
ココダでの7ヶ月間の戦いで、1万人以上の日本兵が犠牲になり、オーストラリア兵は600人が戦死、1600人が負傷しました。しかし、ニューギニアでの戦いは終わったわけではなくこの後も3年続くことになります。
日本軍の兵士の多くが戦闘で亡くなっただけでなく、餓死やマラリアやデング熱などの熱帯病で病死して命を落としました。
オーストラリア軍は空輸での補給があり、日本軍との戦いを有利に進めていきます。日本軍は物資の補給がない孤立した状態で戦うことになります。
【ココダの戦い】はオーストラリア本土を守るための戦争
オーストラリア人にとって【ココダの戦い】は日本軍の脅威から祖国を守るための重要な戦いだったわけです。
いわばココダとは、オーストラリア人にとっては【愛国心の象徴】でもあるんですね。これはどの国の人にとっても同じですね。アンザックデーもある意味、祖国を守るために戦った人々に敬意を表すため
の儀式ですし、戦争での犠牲者を忘れないという意味も含まれています。
パプアニューギニア人にとっての戦争、オーストラリアを救った天使たちの活躍
平和に暮らしていたパプアニューギニア人も太平洋戦争により、オーストラリア、アメリカ連合軍に協力します。この戦争によって現地人も多くが戦争の犠牲者になりました。
ニューギニア人は侵略者としての日本軍、占領者としてのオーストラリア軍の双方に協力しました。自発的に協力したり、時には強制だったりしたようです。
太平洋戦争が始まる前、ニューギニア島の西側がオランダ、東側がオーストラリアの管理下にありました。ニューギニア人はオーストラリア人から二級国民として扱われていました。
しかし、ニューギニアの原住民は、オーストラリア兵に食料や避難所を提供したり、負傷して孤立した兵士を担架で救出しました。ニューギニアの地形をよく知っていた先住民はオーストラリア軍の案内役も務めます。
オーストラリア人は感謝の意を込めて「Fuzzy Wazzy Angel」と呼んでいました。
【Fuzzy Wazzy ファジー・ワジー】とは、先住民の縮れたフワフワの髪の毛からそう呼ばれていました。
このファジー・ワジー・エンジェルのエピソードもココダの戦いと同じくオーストラリアでは有名です。
ニューギニア人の活躍は、それまで未開人としか思っていなかったオーストラリア人の心に変化を起こさせます。戦後、1975年パプアニューギニアは独立を果たします。
日本軍も現地人に食料をもらったり、手当をしてもらい助かった人もいたようですが、一方では食料の補給が無いギリギリの状態で戦っており、軍のトップも「現地調達」を命令します。このことがニューギニアでの原住民の村を襲撃したり、略奪が横行する原因になりました。
日本軍によって村を追われた人や家族を殺された人が大勢います。
パプアニューギニアの人たちにとっても戦争の記憶が深く残っており、日本軍の残虐行為を忘れないお年寄りもいます。
オーストラリアでは戦後、このFuzzy Wazzy Angel(ちぢれ髪の天使)のエピソードが有名になり、パプアニューギニア人もオーストラリア政府によって表彰されています。
上層部の無謀な作戦で多く日本軍の兵士が犠牲になった
日本軍の兵士たちにとって、パプアニューギニアでの戦いはかなり悲惨な戦いで多大な犠牲者が出ました。
作戦が行われる前からの下調べで、ニューギニア島の大きさが日本の本土の3倍で、標高4000メートル級の山脈を超えることは非常に困難であると言うことが分かっていました。
軍の上層部も「攻略は不可能」だと主張していますが、一部の参謀の独断によって作戦が行われます。
作戦を決めた上層部は、ニューギニアを地図上でしか知りませんでした。しかも4000メートル級の山々とジャングルに覆われた険しい地形で、補給もなしに戦えないということすら理解していませんでした。
しかも、その参謀は戦後は生き延び政治家にまでなっています。
ニューギニアに上陸した14万人の兵士のうち生きて帰ってこれたのはわずか1万人だったと言われています。
今でも【玉砕】という言葉で語られますが、軍の無謀な作戦のせいで、多くの兵士が犠牲になったのは事実です。
戦死よりも、軍の無謀な作戦による餓死と病死で亡くなった人がほとんどだったと言われています。
兵士たちは、武器弾薬、食料も無いまま戦えるはずもありません。食べ物が無い中で日本人の兵士は木の根、草の根から、食べれる物は全て食べて、雨水を飲み、最終的には死んだ仲間の兵士の肉まで食べたと言われています。
さらにはオーストラリア人兵士の遺体から肉を切り取って食べた日本軍兵士が戦後裁判にかけられたという事件もあったようです。
日本軍のカニバリズムの真相については賛否両論がありますが、それだけ餓死者が出て食べ物が無いくらい極限状態だったということが分かります。
大岡昇平の[野火]というフィリピンでの戦いを書いた小説でもある兵士のセリフで「俺たちはニューギニアじゃ人肉まで食って苦労してきた兵隊だ」というセリフが出てきます。
この小説では仲間の兵士を殺して食べる兵士が出てきますが、ニューギニアでもこうした事態が起きた報告されています。そして主人公も人肉を食べます。
しかし、軍司令官部は、降伏して捕虜になることを許さず、食料、武器も無く孤立したためにこうした悲劇が起こりました。ニューギニアでの戦い以降も似たような状況が繰り返し起こります。
あまりに悲惨な戦いに兵士の間では、「死んでも帰れぬ ニューギニア」と言われるくらいニューギニアでの戦いは悲惨な戦いでした。
「死んでも帰れぬ」という言葉通りニューギニアには、終戦から70年以上経った今でも多くの日本の兵の遺骨が日本に帰れぬまま眠っています。