こんにちは、とーしばブログのとしです。
オーストラリアには、約5〜7万年前からアボリジニーの人たちが住んでいました。氷河期に陸続きだった東南アジアからニューギニアを通りオーストラリアへとやって来たと言われています。
そして1788年にはイギリスの植民地となりました。日本では松平定信による寛政の改革が行われたり、フランス革命(1789年)が起きた年です。
オーストラリアでは流刑地とゴールドラッシュという言葉がキーワードが重要になってきます。
今回は、オーストラリアの始まりについて紹介します。
オーストラリア流刑の歴史とオーストラリア・デー
1788年〜1868年の間に窃盗犯から、政治犯まで約16万人がオーストラリアに流刑されました。アメリカはイギリスから独立してしまったためにオーストラリアが流刑地として選ばれました。
1788年、フィリップ提督の11隻の艦隊が1000人の囚人を乗せてシドニー近郊のボタニー湾に上陸しました。そして、フィリップ提督は、ポートジャクソンに拠点を移しています。
これが現在のオーストラリアデー(1月26日)の始まりです。
ここでオーストラリア人の祖先って犯罪者なの?と思う人もいるかもしれません。
しかし、オーストラリアに流刑された人の大半は、ちょっとした盗みでオーストラリアに送られました。中には罪もないのに有罪判決で流刑された人もいました。
オーストラリアのラッド元首相(26代首相) の曽祖母は、砂糖を盗んだことで罪に問われてオーストラリアに流刑されています。
当時のイギリス政府としては、とりあえず罪らしきものを犯した人を捕まえて、オーストラリアに手あたり次第に送っていたんですね。
それだけで無く、イギリスの支配に抵抗していたアイルランド人もオーストラリアに流刑されました。
一方で殺人のような大きな罪は、イギリスで裁かれて死刑になることが多かったみたいです。
産業革命の影響で犯罪が多発したイギリス
18世紀イギリスでは産業革命が起こりました。そして産業の中心が農業から工業に大きく変化しました。
その結果、たくさんの貧しい農民が仕事を求めて、ロンドンなどの都市に移り住みました。
しかし、都市部にやってきた多くの人は、とても貧しかったんですね。なので中には生きるために物を盗んだ人も多かったみたいです。
例えば、1シリング(働く人の場合は約1日分の賃金)以上の品を盗んだり、果樹園で木を切り倒したり、羊などの家畜を盗んだりするなどの軽い罪は、オーストラリア流刑によって罰せられました
あまりに捕まる人が多かったので、イギリス国内の刑務所はすぐにいっぱいになり、オーストラリアが流刑地として選ばれました。
囚人を輸送する船の状態は最悪で少しでも輸送コストを減らすために、ぎゅうぎゅう詰めにされ、その結果、船では病気が蔓延しました。
過酷な8ヶ月の長旅を生き残った人はオーストラリアに流刑民としてやってきました。
ハイドパークバラックス
オーストラリアに流刑されて来た人たちを収容していたのが、シドニーにあるハイドパークバラックスです。
Googleマップで確認するとハイドパークとセントメアリーの北側にあります。
ここでは流刑地としてのオーストラリアの歴史が学べます。流刑された囚人の服や鎖やハンモックなどが展示しており、当時の人々の生活が分かります。
オーストラリア開拓のために送られてきた囚人たち
オーストラリアに流刑されてきた人たちは、主にオーストラリアを開拓するために送られてきました。
よく働けば報酬として土地が与えられたり、自由の身になれたようです。
当初はシドニー周辺だったイギリスの植民地はタスマニア、メルボルンへと拡大して最終的には西オーストラリアまで広がります。
もともとは、流刑地として始まったオーストラリアですが、開拓が進み発展していきます。
しかし、もともと住んでいたアボリジニーの人々との土地をめぐる争いやトラブルが絶えなかったようです。
そしてイギリスから持ち込まれた伝染病によって多くのアボリジニーの人たちが亡くなりました。
オーストラリア流刑にはこのように負の側面があります。
ビクトリア州のタスマニアにもポートアーサーという有名な流刑地があります。今では観光名所となっています。
ポートアーサー監獄では、何千人もの囚人が1833年〜1877年の間に流刑地に投獄されました。4階建ての刑務所には、かつて484人の囚人を収容していました。
タスマニアは、オーストラリア本土から離れていたために脱出不可能と言われていたようです。
Googleマップで確認しても、ポートアーサーはタスマニア島から離れた小さな島にあります。オーストラリア本土からも、タスマニア島からも隔離された辺境にあることが分かります。
ポートアーサーには囚人のなかでも、刑が重い囚人を収容していました。多くは木材加工など重労働な仕事に従事していたようです。
流刑地からゴールドラッシュ時代のオーストラリアへ
オーストラリアでは流刑だけでなく、1851年、ニュー・サウス・ウェールズのオーファーという場所で金が見つかり、さらにベンディゴ川、バララットなど、メルボルンでも大量の金が見つかったことで、たくさんの人々が一攫千金のチャンスを求めてやってきました。
ゴールドラッシュ時代の雰囲気が残るバララット
ビクトリア州、バララットには、金の採掘にやってきた人が住むテント町ができました。バララットには、こうしたゴールドラッシュ時代の博物館があります。
メルボルンからバララットはサザンクロス駅からバララット駅まで1時間ほどです。
バララットのソブリン・ヒルではゴールドラッシュ時代のオーストラリアの雰囲気を体験できます。
川で金の採掘を体験したりもできるとか。
ゴールドラッシュで発展したメルボルン
実は、流刑地に送られてきた囚人は16万人ほどで、大多数は植民者のほうが多かったと言われています。
この頃の人口は、1850年ごろは40万人だったのが、114万人と急増します。大量の金が発見されたことでオーストラリアの経済は大きく成長します。
とくにメルボルンは、ゴールドラッシュの影響で目覚ましい発展を遂げました。ビクトリア州にあるアレキサンダー山はゴールドラッシュ時に多くの人が富を求めてやって来ました。
一方で移民が急激に増えた影響で、白豪主義のような移民排斥運動も起こりました。やはり、こうした移民が急激に増えたことに不安を感じる人が多かったようです。
第二次世界大戦後も移民が増加
第二次世界大戦が終わってオーストラリア政府は移民の受け入れ政策を進めます。1945年〜1965年の間に200万人以上の人が自由を求めてオーストラリアへと移民が移住していきました。
さらにベトナム戦争や最近ではアフガニスタンでの内戦でオーストラリアに移住してきた人たちもいます。
最後に
流刑地として始まったオーストラリアですが、ゴールドラッシュなどで徐々に発展していきました。
オーストラリア人の祖先は流刑民という話がありますが、一概にそうとは言えません。
今回は、オーストラリア流刑と移民の歴史についてでした。